旧矢板武邸・旧山縣有朋邸・旧松方正義邸/栃木県・矢板市、那須塩原市


旧矢板武邸・旧山縣有朋邸・旧松方正義邸/栃木県・矢板市、那須塩原市

栃木県・矢板市、那須塩原市

令和4年8月、栃木県北部の那須塩原市、黒磯町にある「旧・青木外務大臣邸」「旧・乃木希典将軍邸」に引き続き、栃木県県北に残る名建築を訪ねました。

まずは矢板市役所のすぐ近くに残る「旧・矢板武邸」。現在は記念館として残っています。矢板武(1849-1922年)は、明治期の政治、経済、学術において現在の栃木県矢板市(市の名称も矢板氏から由来する)から県北地域において多大な功績を残した地方名士といえます。江戸から東北に至る国道4号線、現在のJR宇都宮線(国鉄東北本線)の開通、地方銀行の設立、経営の陣頭指揮をとり、その手腕を発揮しました。
また、政治経済以外では教育分野において、学校建設、整備に世界遺産の日光東照宮とその周辺の保存活動、現在の毎日新聞系である下野新聞社取締役会長も務めた人物です。さまざまな分野において偉業を成し遂げた矢板武は、とりわけ「那須野が原の開拓」の功績は最も有名。福島県の安積疏水、滋賀県の琵琶湖疏水と並ぶ日本三大疏水の一つ「那須疏水」を印南丈作とともに構築しています。
現在も残る「旧・矢板武邸(記念館)」の主屋は、床面積96.7坪の堂々とした平屋建て。玄関から客間、寝室の多くが公開され、矢板武に関する資料や写真展示館となっています。
矢板武は、山縣有朋、品川弥二郎、渋沢栄一、勝海舟など蒼々たる当時の元勲たちとの交流が深くその記録が残されています。

つづいて訪問したのは同じ矢板市にある「旧・山縣有朋別邸(記念館)」。
山縣有朋(1838-1922年)は、長州藩出身の山縣有朋は、吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作らと奇兵隊を率いた倒幕運動に活躍した幕末の軍人、そして政治家です。
明治維新のあと、新政府より欧州視察の命を受け訪欧、帰国後は廃藩置県、徴兵制(国軍、軍隊制度)の制定、地方自治制度確立、近代官僚制度構築など新体制の形成に深く関与しました。第3代・第9代内閣総理大臣、参議、初代参謀本部長、初代内務大臣、枢密院議長などを歴任した偉人です。
その後、元勲として元老筆頭となり政界に大きな影響力を与え、近代日本の基礎をつくった日本人の一人としてその中心的役割を果たしました。現在残る「旧山縣有朋邸別邸(記念館)」は元々、小田原に建てられた別荘を矢板市内に移築再生されたもの。現存する数少ない明治期の洋風木造建築の一つであり、平成2年に栃木県有形文化財(建築)に指定されました。
平成の修復工事を終え、維持保存と山縣有朋の遺品、資料をあわせて公開する目的で、平成4年、私立歴史博物館「山縣有朋記念館」として開館され、平成25年に公益財団法人となっています。


最後に歴訪したのが「旧・松方別邸(萬歳閣)」。
この通称、萬歳閣は、1903年(明治36年)に総理大臣を務めた松方正義の別邸です。那須塩原にある観光地として有名な千本松牧場内にあるこの建物は、床面積101坪の混構造2階建ての洋館で、1階が石造、2階が木造からなっています。
1904年(明治37年)大正天皇が皇太子の時、別邸に駐泊の際、折から日露戦争で遼陽(りょうよう)が陥落した報が届き、一同万歳をしたことから「萬歳閣」と呼ばれるようになりました。別邸の前庭に、かつての堀が残るほか、周辺には多くのモミジが自生し、秋に赤く色づく紅葉に囲こまれた別邸は一段と映えます。
現在、この松方別邸は関係者が利用しており、外部の柵の外から遠景のみ見学出き内部の視察はできません。

取材:株式会社アップル 大竹喜世彦
JMRA日本民家再生協会正会員
HICPM住宅生産性研究会正会員

【旧・矢板武邸/矢板市】

【旧・山縣有朋別邸/矢板市】

【旧・松方正義別邸/那須塩原市】

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