横浜・赤レンガ倉庫・海上保安資料館横浜館
【日時】令和4年4月1日(金)
神奈川県・横浜市
赤レンガ倉庫は、新港埠頭保税倉庫として、明治時代の終わりから、大正時代の初めにかけて建設された。 当時の横浜港は、1859年(安政6年)の開港から半世紀を経て当時、近代的な港湾の整備が横浜にとって急務となっていた。
1889年(明治22年)には第1期築港工事が始められ、大桟橋、東西防波堤などの整備が進められた。
これに続く1899年(明治32年)には、横浜税関拡張工事の名目で大蔵省が主導して、第2期築港工事が始められた。第2期築港工事は、前期と後期に分かれる。
前期工事は、税関前の海面を埋め立てて、係船岸壁を有する埠頭の建設を主に進めた。係船岸壁とは船が直接接岸できる岸壁で、その建設は日本初の試みであった。1905年(明治38年)には埋立が完了したが、同年より引き続いて始められた後期工事は埠頭の拡張と陸上設備(上屋、倉庫、鉄道、道路)の整備を目指した。赤レンガ倉庫は後期工事の中で、国営保税倉庫として建設された。
後期工事には、日清戦争後に急伸し東洋最大の港となっていた神戸港や大阪港に対抗するため、横浜市も約270万円の費用を負担して、築港の完成を急いだ。これは横浜市が国に働きかけて実現させた事業であり、国と地方の共同事業の嚆矢となった。
赤レンガ倉庫の設計は、妻木頼黄・部長率いる大蔵省臨時建築部によって行われた。妻木頼黄は、馬車道にある横浜正金銀行本店(現、神奈川県立歴史博物館)の設計もした明治建築界三巨頭の一人である。2号倉庫が1911年(明治44年)、1号倉庫が1913年(大正2年)に竣工した。第2期築港工事は1914年(大正3年)までに完成し、ここに税関埠頭、現在の新港埠頭が生まれた。全長約150メートル、背面に鉄骨造ベランダを持ち、日本初の業務用エレベーターや避雷針、消火栓を備える赤レンガ倉庫は、国営保税倉庫建築の模範となるとともに、組積造技術の最高段階を示す建築とされる。2号倉庫はレンガとレンガの間に鉄を入れる補強が施されていたことで、1923年(大正12年)に発生した関東大震災でも、被害は1号倉庫の約30%損壊にとどまった。赤レンガ倉庫を含む新港埠頭は、1942年の横浜港ドイツ軍艦爆発事件や1945年の横浜空襲での破壊を避けられ、第二次世界大戦終戦後の1945年(昭和20年)に、連合国軍に接収され、横浜税関に連合国軍最高司令官総司令部が置かれた(後に第一生命ビルへ移転)。新港埠頭のほかにも、横浜港は大部分が連合国軍に接収されて使用不能となり、横浜の復興を遅らせる原因となった。新港埠頭は、1954年(昭和29年)に商船の臨時使用が許可され、1956年(昭和31年)に1号から6号岸壁と赤レンガ倉庫を含む上屋の接収が解除された。接収解除後は、貿易の急増によって入港船舶トン数、取扱貨物量など、すべての数値が戦前の記録を更新した。しかし、貨物のコンテナ化が進展して他の埠頭に主役が移り、1975年(昭和50年)頃には取扱貨物量が激減。それ以降、アクションドラマや映画のロケ地として頻繁に利用されるようになる。特に1986年(昭和61年)から翌年にかけて放送されたテレビドラマ「あぶない刑事」のエンディングで、赤レンガ倉庫がロケ地とされた事により注目を浴び、倉庫への落書きなども横行した。1989年(平成元年)には、倉庫としての役割も終え、その後しばらく放置された。(Wikipediaより転載)
その後、約9年に及ぶ大規模な工事を経て2002年4月誕生したのが横浜赤レンガ倉庫。この歴史的建造物は、2022年4月で20周年という事と5月よりこの文化商業施設、横浜赤レンガ倉庫は設備メンテナンス、耐震補強などの大規模改修工事のため休館となるため訪れた。
また、赤レンガ倉庫からすぐの海側に見える「海上保安資料館横浜館」に立ち寄った。こちらは2004年12月に開設した資料博物館。観光地としてのレンガ倉庫とは明らかに違う施設。今年で北朝鮮による九州南西海域工作船事件から20年目となるが、当時報道された映像には鮮明な記憶がある。海上保安庁と交戦の末に自爆沈没した北朝鮮工作船がその数か月後に海底から引き上げられ展示されている。工作船の中に共に沈んでいた工作員の武器や無線、水中スクーターなどの装備が展示され、当時の状況が記録されている貴重なビデオを見ることもできる。こちらの施設は建設当初から現在に至るまでの運営はすべて民間からの寄付金に支えられている。
入場は無料、撮影録音も可能なため歴史的な事実としてぜひ一度は訪れておきたい展示施設だ。
取材:株式会社アップル 大竹喜世彦
JMRA日本民家再生協会正会員
HICPM住宅生産性研究会正会員
【横浜・赤レンガ倉庫】
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