現在、私たちが目にする東大建築は、その代名詞である「内田ゴシック」であるが、その前の時代の「ジョサイア・コンドル」の存在がいかに大きなものであったか…。
明治時代の旧帝国大学において、当時の日本政府の働きかけにより英国から召集された「日本の近代建築の師・ジョサイア・コンドル」の存在である。
ジョサイア・コンドルは、1852年にイギリス・ロンドンに住む銀行員の子として誕生。父の死後、建築家を志す。ロンドン大学などで建築学を学んだのち、1876年にイギリスの名建築家に因んだソーン賞を受賞した。この賞を受賞することは一流建築家の仲間入りを意味し、23歳のコンドルは英国の期待の新人と言われた。しかしこの年のうちに明治政府の要請を受けて日本行きを決定し明治10年(1877)に来日しました。コンドルの来日と同時に日本の建築学は始まり、工部大学校造家科(のちの東大工学部建築学科)で教鞭を執り、造家学科の第一期生であった辰野金吾らをコンドルは一流の建築家へと育て上げた。
明治期の名建築の多くはこの第一期生4名とコンドルによって作られた。日本では工部大学校(現在の東大工学部建築学科)などで教鞭を執った後に建築事務所を開いて数多くの建築を手がけた。手がけた作品の多くは解体、関東大震災や太平洋戦争の空襲などによる損壊で失われたが、1891年竣工のニコライ堂や、三菱の3代目岩崎久弥本邸など、また近年復元された東京駅周辺の三菱一号館日本の重要文化財になっている建築物を数多く手がけた。有名な鹿鳴館(1940年に解体)も代表的な作品だ。この東京大学の弟子たちの作品には東京駅や日本銀行(辰野金吾)、迎賓館赤坂離宮(片山東熊)、日本橋や横浜赤レンガ倉庫(妻木頼黄)がある。
いわゆる「お雇い外国人」として来日したコンドルの契約年数は5年間であったが、来日前から日本文化に興味があったコンドルは日本の女性と結婚し、日本画も学んだ。コンドルの持つ重要な側面として忘れてはならないのが、日本文化を世界へ向けて発信したという点。当時ヨーロッパには文化的刺激として東洋趣味があった。前途ある青年であったコンドルが日本に来たのも東洋趣味としての好奇心が影響していたに違いないであろう。これを裏付けするかのようにコンドルは河鍋暁斎という絵師の門下に入り「暁英」の号を与えられてもいる。暁斎の死後、師の仕事をまとめた本「Painting and Studies by Kawanabe Kyosai」を出版、暁斎の名を世界に広めた。人々から親しみを込めて「コンドル先生」と呼ばれた彼の銅像は工学部1号館前の広場に立っている。関東大震災以前の本郷キャンパスを計画したのもコンドルであった。オープンスペースとルネッサンス建築によるキャンパスを統合することを基本方針としたコンドルが、震災後の佐野利器、内田祥三のゴシック、現在の安藤忠雄のコンクリート造ガラス建築の本郷キャンパスを見たらどんなコメントをするであろうか。
画像は、昭和初期の佐野利器+内田祥三によるゴシック建築。明治期のジョサイア・コンドル+辰野金吾によるルネッサンス建築は関東大震災というよりも戦火で崩壊された。
文学部。↓旧図書館と隣接地に清水建設による新図書館が建設中である。
当日の視察は現役東大生によるガイド」で行われた
文学部の新図書館は清水建設による鉄骨造