今朝の下野からの日光連山、日中は気温が上がりつつありますが、夜間早朝はまだまだ冬気温。こちらからの男体山は南面斜面だから、この程度だけど北側はそうはいかない。5月の連休辺りに光徳牧場を超え、志津小屋から男体山に上がった途端に、膝もしくは腰高までもって行かれる。男体山は通常(表側)の二荒山神社側から登頂すると、景色がまるで違う(山頂はおろか中禅寺湖すら見えないことが多い)し、瓦礫を這い登る歩程が数時間続き水場もない。歩程はそう大差ないが、北側(裏側)の志津小屋から登ると太郎山が見えたり、開けた景色で表側とはかなり違う。ただ、この時期は雪が深くそれなりの装備と覚悟が必要だし、それなら他の山に行こうとなる。景観から見た山と実際の歩程はかなり違うもんだね。群馬出身で元拓大山岳部で自称アルピニストだった亡父が「男体山なんて登山する山じゃない」とよく言っていたが、そうかもしれない。しかし子供のころから景色の一部として目に焼き付いた父の目には両毛三山、特に老後は毎週のように「赤城山」に行っていたのを思い出した。赤城さんは1つの山ではなくて湖水あり、湿原ありで周辺を称して赤城山というから結構楽しめるコースも多い。しかし、関東平野、特に埼玉、栃木県南は真っ平らで道路を走っていても昇り下り坂がほとんどない。神奈川だって千葉だって昔は海底で、坂の上は島だったかもしれないと感じるが、埼玉県南でこの辺は関東ローム(富士火山灰)なのか?私たちの住む栃木最南の浅間山火山灰でできた平野なのか?という感覚の違いは大きい。その点、亡父の育った群馬県伊勢崎や前橋は宇都宮同様に赤城、妙義、榛名山から至近距離。あんな昭和初期の時代にハイキングやスキーに行けたというのは、ちょっとパラダイスだったのかなとふと考えた。