東京大学の本校は文京区本郷地区の「本郷・弥生・浅野キャンパス」がある。その中でも本郷キャンパスには歴史のある建物が多く、東京都の登録有形文化財第1号である安田講堂を
はじめ、正門(横にある門衛所も含む)、法文1号館、法文2号館、法学部3号館、工学部列品館、工学部1号館が登録有形文化財に登録されている。これらの建物のうち、正門以外は
内田祥三の設計による建築である。これらは共通する特徴をもったゴシック様式の建物であるため、設計者の名前を取って内田ゴシックと呼ばれている。
内田祥三は、1885年 東京深川に生まれた。1904年 東京帝国大学工科大学建築学科入学。在学中に東京駅周辺の三菱ビジネス街で建築実習を受けている。1910年 東京帝国大学大学院
に進む。ここで東京大学教授、佐野利器のもとでコンクリート・鉄骨等の建築構造を研究した。
この佐野利器こそが、日本の建築を「機能・性能主義」へと大転換させた張本人と言える。建築には3つの要素「デザイン・機能・性能」があり、現在の建築にかかわる日本人に、この3つの中でどれが一番重要ですか?」と聞くとほとんどの建築関係者は「機能・性能」と間違いなく答える。この考え方は現在の日本の建築学問が、工学部建築学科であり、内容そのものが「エンジニアリング」である。その背景には、関東大震災による建物倒壊があり、日本の最高学位、東京大学の佐野利器以降にそうなってしまった歴史がある。しかし、現在でも欧米の建築は工学部エンジニアリングではなく、人文科学に属する決定的な違いを生じさせた。佐野利器それ以前の日本の近代建築は、この人文科学の学問として扱われ、「ルネッサンス」による欧米の建築様式主義(意匠中心)のであった。関東大震災を機に、それではダメだと唱えた佐野利器と大論争が展開され、最終的には、日本の建築は、歴史文化を学ぶ人文科学分野から、構造力学的なエンジニアリングの学問分野で扱かわれるになる。これが、現在まで続く、工学部建築学科の基本分野である耐震性を含む構造力学中心の工学系エンジニアリングへの路へと舵を切った瞬間であった。この後のレポートで書く、英国人でルネッサンス建築を日本にもたらしたジョサイアコンドルの近代化を目指した明治の時代は間違いなく歴史文化を表すデザイン重視の建築学(英国)から、より日本の官僚主義の考え方と体質に合う封建的なドイツの建築へと変貌していく。この東京大学の建築学科の教授陣も英国人からドイツへと一気に入れ替わっている。これは現在の日本の建築界の中で「ドイツ派」と呼ばれる建築家がこぞって「パッシブ」などと言いながら実に工学的なエンジニアリング好きの心をとらえていることにも影響している。つまり、日本の建築は歴史文化(デザイン)よりも機能・性能主義が中心の工学的なエンジニアリング出身者しかいなくなった…ということにつながっている。
しかし、現在でも欧米の建築学は人文科学であり、日本の建築がエンジニアリングであるのと大きく違う点である。内田祥三の「内田ゴシック」にはまだまだ歴史文化にもとづいた建築様式が守られているが、現在では、歴史文化を感じさせない「機能主義」が台頭している。その最たるものが、「内田ゴシック」と真正面から対立するような破壊的で機能主義の「安藤忠雄 建築」であろう。その対比の無機質な「コンクリート造ガラス建築」を東大本郷キャンパス内で見ることが出来る。向かい側は歴史文化を感ずる「煉瓦造のゴシック」である。
明治時代の最初の建築学科教授ジョサイア・コンドル(英国人)
現在の東大の古いレンガ建築は内田祥三によるゴシック、通称「内田ゴシック」
これと対峙する「安藤忠雄」のコンクリートとガラスのモダニズム建築がある